49話 南次郎の策略


今日で合宿最終日。もう時間的にも大阪には居られない。
私は少し寂しい気がしながらも、早く帰らないと…と愛しい人の事を考えていた。

「楽しかったねー」
「練習はハードだったけどね」

なんて、女子テニス部の皆が口々に合宿で起きたことを話しつつも荷物をまとめ終え、 私もバスに乗ろうとしていた時、聞きなれた元気な声に私はぴたりと停止した。

ー!」
「え?…って、金太郎君?!」

遠くから元気に駆け寄ってこようとする金太郎君とその後ろから走ってくる四天宝寺の皆の姿に私は、 慌てて金太郎君達の元へと駆け寄る。

「みんな、どうしたんですか?!」

部活で今日は来れないと言っていたのに、なぜかここに居る皆に私は何かあったのかと心配になる。

にこれ渡しにきたんやー!」
「え?」

金太郎君にビニール袋を渡された私は、思わずその中を覗く。

「これ…タコだよね?」
「せや!たこ焼きにしたら、めっちゃ美味いで!」
「餞別や、持って行き」

謙也さんにそう言われ、どうやって持って帰ろうかということが頭に過ぎりつつも私は皆に頭を下げる。

「ありがとうございます。あの…でも、皆さん部活はどうされたんですか?」
「うちの部長が、珍しいことにもう全然集中力無くてなぁ」
「え?」

私がちらりと白石さんを見ると、白石さんはそう言った謙也さんの方を睨んでいる。

「謙也…」
「おーこわ!」
「まぁ、ええやないの。うちらもちゃんをお見送りしたかったことやし」

謙也さん達をフォローするように小春さんが笑顔で私の両手を握る。白石さんは、小さなため息をついて肩を落とした。

「皆さん!本当にありがとうございます!」
「白石、またと遊べる?」
「金ちゃん…」
「大丈夫!また会えるよ。だからその時、またテニスしようね」
「ホンマか?!」

私は金太郎君の頭を撫でながらにっこりと笑うと、金太郎君も満面の笑みで返してくれた。

「うん!おいしいたこ焼き屋さんにも連れて行って欲しいな」
ならいつでも連れてったるで!な!白石!」
「ああ。いつでもおいでや、
「はい!ありがとうございます。白石さん」
「いや、俺の方こそありがとうな」

差し出された白石さんの手を握り返し、握手を交わすと周り視線が一気に集まる。

「なんや。ええ感じちゃいますの?お二人さん」
「「え」」

そんな謙也さんの声で、とっさに私と白石さんは手を離す。

「でも彼氏くん居るみたいやしなぁ」
「じゃあ、白石の片思いで終わりか」
「いやいや分からへんで。今は略奪愛なんてのも流行ってるし」

白石さんを茶化すように聞こえてくる小春さんたちの声に白石さんが声を上げる。

「こら!お前ら!」
「あはは…じゃあ、もう本当に行かないと」

もし、この場にリョーマがいたら、相当機嫌を損ねたんだろうなぁとなんて思いつも、はちらりと腕時計を見た。

「またなー!ー!」

大きく手を振ってくれる皆に私も大きく手を振って別れを告げた。


「リョーマ!今日は昨日よりマシなボール打ってくるじゃねぇか!」
「余計なお世話だよ!」

余裕を見せる南次郎に、リョーマは少しむっとしながらもボールに素早く反応して打ち返すが、 南次郎は物ともせずにリョーマの横を抜くボールを見事ライン際でコートに決めてみせる。

「っ!」
「まだまだだな、リョーマ」
「…親父。もうひと勝負」

汗をぬぐいながらリョーマが悔しそな表情でそう言うと、南次郎は時計を見てぼそりとつぶやく。

「あー、腹減ったなぁ」
「は?」
「ってなわけで!晩飯食いに帰るか!」
「ちょっ!親父!…ったく」

ご機嫌に鼻歌を歌いながらリョーマの肩を組んで、歩き出した父親にリョーマは逃げることも出来ずただため息をついた。


ー!皆で一緒に晩御飯食べて帰らない?」

東京に戻ってこれたのは、夕方。確かに、そろそろお腹がすいた時刻だが…。

「ごめん!家の用事あるんだ!じゃあね!」

は、誘ってくれた女子テニス部の女の子に手を合わせて謝ると腕時計を見ながら急いで走り抜けた。

「あんなに急ぐ用事ってなんだろう?」
「さぁ?門限とかじゃない?」
「あー、って今、知り合いの家でお世話になってるんだっけ?」
「「大変だねー…」」

周りにいたクラスメイトの三人が憐れむかのような瞳での背中を見つめた。


「(やばい!ギリギリ!南次郎さんに言われてた時間に間に合うかな?!)」

この時間に帰ってきて欲しいと言われていた私は、とにかく道を駆け抜ける。
たしかにもう暗くなる時刻だ。倫子さん達にも心配をかけてあまり夜遅くなるわけにはいかないし、 時間を指定されたということは、何か用事があるのかもしれないと思いながらも走り続け、 ようやく見慣れた道に出たところで、目指すべき家に到着する。

「はぁ…なんとか間に合ったぁ」

息を切らしながら腕時計の時刻を確認して私は、 家の少し前で立っているとこの一週間で、ひしひしと感じさせられた一番愛おしい人が玄関を開けて出てくるのが目に入る。

「…リョーマ?」

リョーマ自身も私が立っていたことに驚いたように大きく目を開いた後、足早に塀の前に立つ私に近づいてくる。
私はそんなリョーマの方を首をかしげて見つめる。

「どこか出掛けるの?」
が予定より遅いから迎えに行けって親父に言われた」
「えっ。そんなに遅くないよ?南次郎さんに言われた時間までに帰って来たもの」
「は?親父が?」
「そうだよ。昨日、電話くれたの」
「…またやられた」
「え?」

リョーマは、自分は南次郎にはめられたのだと理解すると深いため息をつくのに対して、 なにか分からずリョーマの目の前でキョトンとしている私にリョーマは腹を括った様に声をかける。

、疲れてる?」
「へ?なんで?」
「"You'll come with me tonight?"」

(今夜、俺と一緒に来る?)

流石と言うべき帰国子女であるリョーマの綺麗な発音が私の耳に届き、瞬時に脳内で翻訳され間抜けな声が出る。

「…へ?」
「この程度の英語ならでもわかるでしょ?」
「わ、分かるわよ。だって…」
「そう」

私が大好きなホームズシリーズでも、「最後の事件」として宿敵モリアーティ教授と対決して、 死亡したと思われていたホームズが生還した後で初めて解決した「空き屋事件」が載っている短編集。

「"シャーロック・ホームズの帰還"」

私は思わず本の題名を口にすると、悪戯な表情でリョーマはを見つめる。 リョーマが言ったのは、ホームズと助手のワトソンが再会したときにホームズが優し気に言った台詞。
ファンならば、ホームズとワトソンの再会シーンが印象に残っていない者はいないだろう。

「じゃあ、リョーマがホームズさん?」
「そうなるんじゃない?」
「帰ってきたのは私なのに…」
「別にいいんじゃない?の父親って医者だし」
「うーん。それもそうか」

私はリョーマの言葉に乗るように、微笑んでワトソンの台詞を日本語で口にする。

「"何時でも、どこへでも行きましょう。あなたが、望むなら…"」

(When you like and where you like.)

「じゃあ決まり」

そう言うとリョーマは、私の手を引っぱり足早にどこかへ向かおうとする。

「あ。でも、私一回戻らないと倫子さん達が…」
「大丈夫」
「え?」
「親父が自分で仕組んだんだからどうにかするでしょ」
「し、仕組んだ?!」
「そう」
「え…ぇええ!」


近くのファミリーレストランでリョーマと向かい合わせに座り、 テーブルの上にはある注文したナポリタンを私はどんどん食べ進める。

「二人で夜に外食なんて初めてじゃない?」
「そうだっけ」
「そうだよー!」

一度、倫子さん達が居ない時は出前だったし、いつも倫子さんがおいしい晩御飯を用意してくれるから、 お昼ならともかく、リョーマとこうして夜に外食なんてしたことがない。

「すいませーん!苺パフェ下さーい!」
「本当、よく食べるよね」
「食後のデザートよ!それにリョーマ程じゃないもん」

注文した苺パフェがきたところで私がご機嫌で食べ進めていると、ふと集中する視線に気がつきスプーンを止めてリョーマを見る。

「な、なに?」
「別に…食べる?」

リョーマは、自分が注文していたフルーツパフェを一口スプーンですくって私の目の前に差し出す。
そんなリョーマに驚きつつも私は目の前のパフェに目を輝かせる。

「え?いいの?!」

私はパクリとリョーマに差し出されたスプーンにかぶりつく。

「んー!おいしい!」

リョーマは何も言わずにどこか優しげな目を私に向ける。
そんな視線が少し照れくさく感じながらも私は先ほどリョーマがしたように、自分の分を一口スプーンですくってリョーマの前に差し出す。

「じゃあ、はい。リョーマ」
「…は?」

思いもしなかったのか私の行動に対して思わずリョーマは、身構えて体を後ろにそらす。

「はい、あーん」

笑顔でそういう私にリョーマは少しだけ頬を染めてきょろきょろと周りを見た後、もう一度私を真っ直ぐに見る。

「?」
「…俺はいい」
「なんで?これもおいしいよ」

リョーマは、深いため息を一つ吐く。
こういうを見ると、彼女が一週間ぶりに帰ってきたことを改めて実感する。

「ほらほら、遠慮しないの」

やるのとやられるのでは、こうも違うものかとリョーマは思う。自分の性格上やはり攻める方があっているようだ。

「…わかった」

リョーマは自分の前にスプーンを差し出す私の右手を掴んで、座っている私を自分の方に引き寄せる。

「うぇっ?!」

向かいに座るリョーマに引き寄せられたことで、私は軽く立ち上がり思わずテーブルに左手をつき体を支える。
そんな私の頬をペロリとリョーマが舐めた。

「なっななな!」

私が驚いて咄嗟に頬を抑えるながら逃げるように、ソファーの背もたれギリギリまでリョーマと距離をとる。

「遠慮しないでいいって言ったじゃん」
「違うでしょ!パフェのこと言ってんの!」
「へー、そうなんだ」
「白々しい…って、あああー!」

私がパフェから手を離していたら、当たり前のようにリョーマが私の注文した苺パフェを食べ進めている。

「ちょっとー!もう、リョーマには絶対あげないからね!」


食べているリョーマから苺パフェを取り上げて私が怒っていると、 再びリョーマにフルーツパフェが一口サイズにすくわれたスプーンを差し出される。

「うっ…」
「食べるの?食べないの?」
「…頂きます」
「ん」

こうも心が落ち着く時間があるなんて、と出会う前は知りもしなかった。
こんなに二人で過ごす時間を好きになる日が来るなんて思いもしなかった。
人はよく知ってしまえば、もうそれを知る以前の自分には決して戻れないなんて言うがまさに麻薬と同じだと今になればよく分かる。

「ごちそうさまでした!」

私が空になったお皿に手を合わせる。 「帰ろうか」と私が言うと、頷いて何も言わずにリョーマは立ち上がりスタスタとお会計を済まそうとする。 そんなリョーマに驚き、急いで追いかける。

「ちょ、ちょっと!自分の分くらい自分で払う…」
「いい。今回は親父の奢りだから」
「…へ?」
「これ、ポケットに入ってた」

リョーマは南次郎さん独特の字で“リョーマとちゃんへ!”と書かれた封筒を私に見せる。

「だから言ったじゃん。親父にはめられたって」

そう言ってリョーマはレジでお金を払っていう。

「南次郎さんの分のお土産もっと追加した方がよかったかな?」
「…いや、別にいいんじゃない?」
「そ、そう?」

たまに見せるこういった気遣いにリョーマはよく驚かされる時もあるが、自分より大人だと思わされるの一面でもある。
リョーマはそんなことを思いつつも、そのまま二人で家までゆっくりとしたスピードで歩いて帰る。

「ところでこれ、なに?」

私の荷物を半分持ってくれていたリョーマが、一つだけ別けるようにしてあるビニール袋が目に入る。

「生のたこ一匹。たこ焼きにすると美味しいんだって」
「…なんでそんなの持ってんの?」
「もらったの」
「誰に?」
「うーん…同い年なのに、リョーマと違って可愛い素直な性格の男の子」
「は?」

私がそういうとリョーマは、ピクリと反応して一気に鋭い視線を見せる。

「なにそれ」
「妬いてくれた?」

リョーマをからかうようにそう言い、リョーマの顔を横から覗き込む。

「…別に」

フイッとリョーマは私から視線を逸らす。そんなリョーマに私はクスクスと笑う。

「やっぱりリョーマが一番だなぁ」
「なに突然」
「私、リョーマの隣が一番好きだよ」
「…バッカじゃないの」

照れた表情を隠すかのように、再び家に着き玄関のドアを開けようとした瞬間リョーマは動作をぴたりと止めて、後ろに居る私の方を振り返る。

「あ…言い忘れてた」
「なに?」
「おかえり、

普段は滅多に見られない優しげに微笑むリョーマのその言葉が純粋に嬉しい。
それ以外は、なにも言ってはくれないけど、それだけで自分を待っていてくれたと分かる。 だからリョーマは凄いんだ。 どんどんこみ上げてくる様々な思いを胸に私は、両手を広げてリョーマに抱きついた。

「リョーマ!」

ガチャ

「は?うわっ!」

ガン!!

私がリョーマに抱きついた瞬間、リョーマの背後の玄関が突如ガチャリと開く。
私の体重と荷物の重さ、そして無くなった支えの反動によってそのまま後ろに倒れて、リョーマは玄関先の床で後頭部を激しく打つ。

「ご、ごめん!リョーマ!大丈夫?!」
「ッ!にゃろう…」
「あらやだ!」
「り、倫子さん!」

倒れこんだ先に居たのは驚いた様子で立っている倫子さん。どうやら玄関のドアを開けた犯人は、倫子さんのようだ。

「まぁ、どうしましょ!あ!おかえりなさい!ちゃん!」

驚き困った表情をした後、リョーマの上に倒れこんでいるを見ると倫子は一瞬にしてに笑顔をむける。

「た、ただいまです」
「声がしたから、もしかしてと思ったんだけど…」
「すみません。帰るのが遅くなりました」
「いいのよ!あの人が勝手に仕組んだだけなんだから」
「そんな!私、とっても楽しかったです!」
「あら、そう?それなら良かったんだけど…」
「…どうでもいいけど、早く退いてくれない?」
「あ!ごめん!リョーマ!」

一週間ぶりに会う倫子と話すのに夢中になってしまい、今、自分がリョーマの上に乗っているという大事なことを忘れてしまっていた。
はたから見れば、私がリョーマを押し倒しているようにしか見えないだろう。
急いで私はリョーマの上からおりて、座り込んだままリョーマに手を差し伸べる。

「はぁ…」

私が手を差し出すとリョーマが私の手を取り、ゆっくりと上半身を起き上がらせる。 打ちつけた頭を痛そうにさするリョーマに私が尋ねる。

「大丈夫?」
「ん…平気」

そんな二人のやりとりを微笑ましそうな表情で倫子さんが見つめていた。

「やっぱりいいわねー」
「「…は?」」

玄関先で座り込んでいる私とリョーマと同じ高さまでしゃがみ、ニコニコとした満面の笑みでこちらを見てそういう倫子さん。

ちゃんが帰ってくると、一気に家が華やかになるんだもの」
「そ、そうですか?」
「ええ。本当よ」
「…騒がしいの間違いじゃないの?」
「リョーマひどーい!」
「ほら、騒がしいじゃん」
「もうリョーマにはお土産渡さないからね!」
「あら、お土産?」
「あ、はい!倫子さんの分もありますよ!」
「まぁ!ありがとう、ちゃん!見せて見せて!」

そういい倫子に引っ張られリビングの方に連れて行かれる
頭では分かっていても、やはり皮肉しか言えない自分にリョーマは深いため息をついて靴を脱いだ後リビングへと足を進めた。


?」

リョーマがリビングのソファーでくだらないバラエティ番組を見ながら話しかけられる会話に相槌を打っていた隣で、 先ほどまで倫子たちとお土産を広げながら話していたはずのの体がゆっくりとリョーマにもたれかかってきた。
驚いたリョーマがの方を見ると、どうやら寝てしまっているようだ。
倒れこもうとする体が支えられるようにの頭がリョーマの肩に乗る。

「……」

突如静かになったに気がついた倫子達も、リョーマにもたれ掛って寝ているの方を見る。

「あらあら、疲れたのね」
「そりゃそうだろうよ」

南次郎と倫子は優しく静かに眠るの頭を撫でる。
大阪にいっていた一週間…のことだ。きっと忙しげに走りまわっていたに違いない。

「…お疲れ様」

リョーマは、倫子達にも聞こえないくらい小さくそう呟く。

「リョーマ」
「…分かってるってば」

倫子が訴えるようにリョーマの名を呼ぶ。
リョーマは自分にもたれ掛るの背後から手を回し、そっと肩を抱いての足を持ち上げて自分の方に向けさせる。
すると寝ているは無意識に温かさを求めるようにリョーマの胸元に頭を寄せた。

「俺も寝るから」

南次郎達を目の前にそう言うと、リョーマはの体を持ち上げながら立ち上がる。
そんなリョーマをニヤニヤとした表情で見る南次郎が声をかける。

「おう、青少年。なんなら俺がちゃんを運んでやってもいいんだぜ?」
「いらない」

を抱きかかえながら睨みつけるような鋭い目を南次郎にみせると、そのまま何も言わずにリョーマはリビングを出た。

「もう、あなたったら…」
「まだまだだな」

リョーマが出ていくと、自分のことを睨む倫子とは反して、南次郎はいつもの調子でニヤついた表情でそう言った。


リョーマはの部屋に入ると、そっとベッドにを下ろして寝かしつけると、 ベッドの端に軽く腰掛けて、気持ちよさそうに眠るの髪を指で撫でながら優しい目で見降ろす。
その時間があまりにもリョーマの中で穏やかで、完全に時間が経つのを忘れてしまいそうになる。

「おやすみ」

危うくハマりそうになっていた時間の罠を振り払うかの様に、リョーマは部屋を出ようとから手を離して立ち上がる。 そのまま歩き出そうとした時、微かに服の裾を後ろから引っ張られる感覚がして、リョーマがゆっくり後ろを振り返ると眠たそうな目をが微かに見開いた。

「…なんだ、起きたんだ」
「うーん。たったいまさめたー」

今にも閉じてしまいそうな目、呂律の回りにくそうな喋り方…どうやらは完全に寝ぼけているようだ。

「眠いなら寝てなよ」
「でも、リョーマは部屋にもどっちゃうんでしょ?」
「当たり前じゃん」
「やだー」
「は?」

普段の彼女からは考えられない我が儘が出たことにリョーマは目をぱちくりとさせる。

「いてくんなきゃいや」
「…甘えん坊」

そう言ってリョーマは再びに近づくと、ベッドに左手を置いて体勢を低く屈めながら、くしゃりと右手での髪を撫でる。

「りょーま…」
「ん。なに?」
「キスして」
「…え」
「ダメ?」

先ほどかららしからぬ言葉や発言の連発を彼女が完全に目を覚ました翌日、 どこまで自身で覚えているのかが謎なだけにリョーマはこれはどうしたものかと戸惑いつつも、 理不尽ながらも最悪の場合、後で目が覚めた彼女に自分が怒られればいいだけの話だ…と思ったリョーマは、の唇に軽く触れるだけのキスを落とす。

「ん…おやすみ」
「ありがと、おやすみ。リョーマ」

そう言うとは我慢の限界が着たようで、再び目を閉じて静かに眠る。 が完全に寝たのを確認するとリョーマは、ゆっくり立ち上がりの部屋の電気を消して部屋を出た。


「ふぁあ…よく寝たー」

目をこすりつつもはパジャマから着替えた後、階段を降りる。

さん、おはようございます」
「あ、菜々子さん!おはようございます!」

台所で朝食の支度をしている菜々子には、とっさに挨拶を返す。

「昨日は随分、疲れてらしたみたいですね」
「す、すいません。起きるの遅くなっちゃって…私、いつ寝ちゃったのかも覚えてなくて」

朝になって気がついたら、自分の部屋のベッドで寝ていたは、もしかしてなにかしら迷惑をかけてしまったのではないかと心配になる。

「リビングで寝てらしたので、リョーマさんが運んだんですよ」
「…え?」
「自分も部屋に戻って寝るついでだからって、おばさまもリョーマさんに預けてられて…」

菜々子の言葉では思わず頭を抱える。
そ、そんな!まさか!と耳を疑いたくなる事実だが、確かに自分で部屋に戻った記憶はない。
誠実な菜々子さんが自分に対してそんな嘘をつくとも思えない。とすれば…。自身、血の気が一気に引くのが分かる。

「いやああああ!」
さん?!」

は急いで、台所を出ると再び階段を駆け上がり、自分の部屋の隣であるリョーマの部屋のドアを戸惑いなしに勢いよく開ける。

「りょ、リョーマ!!」
「ん…うるさっ」

ベッドの中で未だ寝ていたリョーマは、の頭に響くような大声に耳を塞ぐ。

「ごめん!ちょっと起きて!聞きたいことがあるの!」
「なに?今日、学校祝日で休みじゃなかった?」
「そうだけど!ちょっとだけ!答えてくれたら、また寝てもいいから!」
「…はぁ」

深いため息をついた後でリョーマは欠伸をしつつも、布団から体勢を起き上がらせると不機嫌で眠たそうな目でを見る。

「なに?」
「昨日の夜、私を部屋に運んだのってリョーマなの?!」
「…そうだけど?」

焦ったような表情をしているに対して、リョーマはマイペースにさらりと答えると、さらには血の気が引いたような青い表情に代わる。

「あの…重かったよね?」

は恐る恐るといった目でリョーマに尋ねると、なんとなくが気にしていることを理解したリョーマは楽しげな笑みを浮かべて答える。

「まぁ、お世辞でも軽くはないよね」
「はうっ!!」

リョーマの言葉が刃物のように鋭くの胸に突き刺さり崩れ落ちるように床に手をつき四つん這いになると、もはや半泣き状態の瞳でリョーマを見上げる。

「や、やっぱり…ふ…たの…」
「は?」
「だから太ったのよ!1.0キロ!」
「…大したことないじゃん」
「大したことよ!大阪で食べたお好み焼きが悪かったのかしら?それとも夜に食べちゃったスナック菓子か合宿所の夕飯に出たしゃぶしゃぶか昨日のパフェか…」

真剣に頭を抱えて悩んでいるだが、何が悪かったのかというより、それら全部の積み重ねだという考えに至らないものかとリョーマは呆れたような目でを見る。

「冗談だって」
「へ?」

その声で我に帰ったが顔をあげるとリョーマが真っ直ぐにを見ていた。

一人抱きかかえるくらい出来るし、そんなに重くもないから」
「う、嘘だー!そんなことで気を使わなくてもいいわよ!むしろ辞めて!むなしくなるから!」
「へぇ。は俺がそんなに出来た人間に見えるわけ?」
「…見えないわね」

そういうと、じーっとリョーマの目を見つめて真面目に言うに、リョーマは再び深いため息をついた。

「それより。昨日のことどこまで覚えてるわけ?」
「どこまでって…朝起きたらベットで寝てたもん」
「じゃあ、全然覚えてないってこと?」
「うん。リョーマが運んでくれたってことも菜々子さんから聞いたの」
「なるほどね。じゃあ、いいや」

確かに昨日の夜のことを微かにでもが覚えていたのだとすれば、 今までのの行動からみても、こうしてリョーマの部屋に入ってきてすらいないだろうとリョーマは思う。

「まさか私、寝てる時リョーマになにかした?」

本当に丸々記憶がないの様子が、リョーマの悪戯心をかきたてる。
リョーマはの手を引っぱり自分の方へと引き寄せた後、小さくの耳元で囁く。

って意外とおねだり上手だよね」
「おねだ…はぁ?!」

リョーマの言葉では一気に頬を赤く染める。

「またいつでもいいなよ。好きなだけしてあげるから」
「いや、あの、なんの話?!」
「それより俺、着替えるから出てってくれない?それとも見たいの?のエッチ」
「ッ!リョーマの馬鹿!!」

床に置いてあった丸いクッションをリョーマに思いっきり投げつけ、は部屋に入ってきた時以上の音をたててリョーマの部屋を出た。

「ちょっと、いじめ過ぎたかも…」

合宿から帰ってきたばかりだというのに、つい苛めたくなってしまう。 好きな子程いじめたいとはよく言ったものだが、自分の場合は、相当歪んでいるともリョーマは思う。
パジャマから部屋着に着替えたリョーマは、の機嫌をなおす為にゆっくり部屋を出た。