19話 恋の境界線
地区予選から8日が経ち、ようやくリョーマの怪我も完治した。
「はい、ちゃん」
「すいません。ありがとうございます」
公園のベンチに座る私は、不二先輩から缶ジュースを受け取る。
「いいよ、僕が呼んだんだし」
「いえ。でも一体、どうしたんですか?」
昨日の夜、私の携帯に不二先輩から一本の電話がかかってきた。その内容は、明日公園に来てほしいとのことだった。
「うん。実は、一つお願いがあって」
「お願い?」
「越前のことで」
「…え?」
思いもしなかった不二先輩からの言葉。私は、その名前にピクリと反応した。
「あはは。そんな暗い話じゃないから、安心して」
「不二先輩、意地悪です」
「ごめんごめん」
一体、不二先輩は私にリョーマの何をお願いしたいのだろう。
「きっと越前もこれからもっと大変だと思うんだ」
「そうですね。試合も続きますから」
「だから、上手く支えてあげて欲しいんだ」
「当然です。選手を支えるのは私の仕事ですから」
「うん。そうなんだけど、そういう意味じゃなくて…。誰よりも越前の力になってあげて欲しいんだ」
「…私が、ですか?私より、リョーマには先輩方の方が頼りになると思うんですけど」
「そんなことないよ。むしろ、ちゃんにしかできないことだと思うんだ」
「え…?」
「僕の勘って、結構当たるんだよね」
「勘、ですか?」
「そう。勘だよ」
不二先輩にしては、非科学的なことを言うと思うが…きっとそれは不二先輩なりの優しさなんだろう。
「分かりました!全力で支えます!」
「よろしくね」
「はい!」
不二先輩に言われたからじゃない。私自身だって、リョーマの力になりたいって思うから。 これからも傍にいたいって…。
「(って、あれ?…ちょっと待って?)」
これって、変じゃない?
たしかにマネージャーとして、リョーマの力になりたいって言うのはまだ、分かる。 だけど、傍にいたいと思うなんて…これじゃまるで…。
「(私が、リョーマのこと好きみたいじゃない!)」
あれ?…あれ?!
私は、自分の思考に混乱していると、不二先輩は不思議そうに私の方を見る。
「ちゃん、どうかした?」
「い、いえ!なんでもないんです!」
「そう?」
「はい!」
その後、私はベンチを立ち不二先輩と別れた。
「思った通り、かな」
不二は、ベンチから立ち上がり携帯を取り出す。
「もしもし。手塚?」
夕暮れで赤くなる公園
「ぁあ。ちゃんと手塚に言われた通り、ちゃんに伝えたけど…」
強くなるための荒治療
「いいよ。それより手塚。僕も、ちゃんで間違いないと思うな」
このたった一つのきっかけが運命の針を大きく進めていく。
「ちょっと!やめなさいよ!」
「女がでしゃばるんじゃねーよ!」
「なによ!こんな小さな子いじめてよく言うわ!」
「じゃあ、てめーが代わりに払ってくれんのかよ!」
私は、自分の気持ちに悩みながら不二先輩と別れた公園からの帰り道
「…?」
なにやら、テニスバッグを持ちスポーティな格好の女の子とガラの悪そうな中学生の男の子が道で揉めているようだ。
「ご、ごめんなさい!」
女の子の足元に抱きつきながら、小さな男の子は泣きじゃくりそう言う。
「謝れば済むって問題じゃねーんだよ!ガキ!」
あの男の服装を見る限り、小さな男の子があのガラの悪そうな中学生にぶつかり、アイスをつけてしまったのだろう。
「このシャツどうしてくれんだよ!弁償しやがれ!」
「…胆の小さい男ねー!」
「ぁあ?!」
私は、わざと聞こえるように大声で言った。
「小さい子と女の子相手に弁償ですって!!あー!やんなっちゃう!」
「うるせぇ!また女かよ!てめーも関係ないだろ!」
「確かに関係ないけど…貴方の声に皆、迷惑してますよ」
「ぁあ?!」
彼は周りを見渡し、行きかう人達が向ける視線を睨み付けて敬遠させる。
「それにそんな小さなことをウジウジいう男なんて…女の子にモテないわよ」
「黙りやがれ!好き勝手言いやがって!」
そう言うとガラの悪そうな中学生は、真っ直ぐに私に殴りかかってくるが、私は、黙ってその拳を避けて人間の弱点ともいわれる弁慶の泣き所の向こう脛を思いっきり蹴飛ばしてやった。
「いってー!!」
男は、跪いて足を抑える。その瞬間、私はその男の横を通り過ぎて女の子と小さな男の子を引っ張る。
「逃げるわよ!」
「え?えー?!」
「待ちやがれ!」
私達は、全力疾走で男をふりはらった。
「はぁ…はぁ…」
「あ、あなた…滅茶苦茶ね」
「どっちが…」
お互い顔を見合わせると、何か近いもの感じる。
「「ぷっ…あはは!」」
「助かっちゃった。ありがとう!私、橘杏」
「橘…?」
女の子に自己紹介をされた時、どこかで聞き覚えのある名前に私は思考を巡らす。
「橘…。あ!まさか、不動峰の橘さんの妹さん?」
「あら、兄を知ってるの?そういえば、貴女どこかで…」
私は、以前に桃が教えてくれた“橘杏”という名前と彼女の特徴のお陰で、ピンときた。
「私、青学テニス部マネージャーの」
そう言うと杏ちゃんは、思い出したように目を大きく開く。
「一度挨拶したいと思ってたのよね。これも、なにかの縁だわ!よろしくね!」
「うん!私の方こそ、よろしく!」
私と杏ちゃんは、握手を交わしてお互いに携帯の番号を教え合っていると、ブーブーと私の携帯のバイブ音が響く。
「…あ」
どうやらメッセージがきているようだ。送信相手は、リョーマらしい。
「(なんだろう?)」
リョーマからメールだなんて、珍しいと思いつつ新着メールを開く。
――今どこ?
ただ、それだけしか文章に書いていないが、なんともリョーマらしくて笑ってしまう。
「あら、その様子だと彼氏からのメールかしら?」
「か、彼氏なんていないよ!」
「じゃあ、好きな人かしら?」
「そんなんじゃ…。わ、わかんない…」
少し照れたようにそう言うを見て、杏はなにかを察したように微笑む。
「そうよね!恋なんてわかんないわよね」
「杏ちゃんも、そう思う?」
「ええ!だって好きなんて、感覚の問題じゃない?」
「感覚…」
「あとは、自分の心が従うままに動くしかないじゃない」
「従う?」
「素直になるってことよ」
「…」
は杏の言葉が心に響く。
「(そっか…そうだよね…。難しく考えることないんだよね)」
好きなんて、感覚の問題。その通りだ。さっきのように頭で考えても、何も出てくるわけがない。
「(自分の心に従う…。素直に…)」
私は、ちらりとリョーマからきたメールを見る。
「(いつからだろう。自分でも気付かなかったなぁ)」
今まで考えていたのが、馬鹿みたいだ。
「ありがとう!杏ちゃん!」
「なんだか、すっきりしたみたいね」
「うん!」
そっか…うん。私、リョーマが好きなんだなぁ。
「でも、マネージャーとしては問題だわ…」
「?」
口元に手を当て、小さく呟いた私に杏ちゃんは可愛らしく首をかしげた。
その後、杏ちゃんと一緒に小さな男の子を家まで送り届けたものの、すっかり話に花が咲いてしまった。 気付けば暗くなっていて、私達も互いの家へと急いだ。ブーブーと、また震える鞄の中に入れた携帯電話を取り出して開く。
「(え?着信?!)」
私は、走るのをやめて表示された名前に吃驚して電話に出る。
「リョーマ?なに?」
『…“なに?”じゃない』
「え?」
『メール』
「あ…ごめん!ちゃんと見たんだけど!」
杏ちゃんといたため、すっかり返すのを忘れていた。私がそういうと、リョーマは電話越しに呆れたようにため息をつく。
『それで、今どこ?』
「うーんと…バス停過ぎたところ」
『また、何時だと思ってるわけ?』
「うっ…ごめんなさい。20時過ぎです」
『そろそろ子供が一人で出歩いていい時間じゃないと思うけど?』
「子供って…リョーマの方が年下の癖に」
『一つしか違わないじゃん』
「それもそうだけど」
「本当、どっちが子供か分かんないよね」
「だから、ごめんって…あれ?」
私の耳がおかしくなったのだろうか。私は少しだけ耳から携帯電話を離す。 たしかに今、携帯からじゃなくて違うところからリョーマの声が…。
「気付くの遅すぎ」
「…リョーマ?」
私は、前から携帯電話を左手に持ち真っ直ぐに歩いてくるリョーマに目を奪われる。
「な、なんで?!」
「親父が心配だから迎えに行けって」
「え?」
「誰のせいだと思う?」
「…私です」
「分かってるなら、早く帰ってきなよ」
「ごめん」
これじゃ、確かにどっちが年上か分からないわ…だんだんと情けなくなってくる。
「それで、こんな時間まで何やってたわけ?」
「あー…ちょっとね」
「俺には言えないことやってたんだ」
「ち、違う!友達と話してたら、こんな時間になっちゃっただけ!」
「ふーん。友達、ね」
「リョーマこそ、今日は何やってたの?」
「…」
「リョーマ?」
「別に、なんでもない」
可笑しい。朝早く家を出たのに、なんでもないあり得ない。
「…リョーマの方こそ、私には言えないことやってたの?」
「はぁ?」
「いいのよ。別に、リョーマがどこで何をやってようが私には関係ないから」
「…何?拗ねてるわけ?」
「うっ…」
「もまだまだだね」
生意気そうな笑みで私にそう言うリョーマ。 私は、自分の気持ちに気付いてしまっただけに、リョーマにからかわれている様に感じてしまい、どうも悔しい!
「別に、ただ部長と試合しただから」
「…え?部長って、手塚部長と?!」
「そう」
「なんで?!」
「知らない」
「知らないって!ちょっと!」
リョーマは、何食わぬ顔ですたすたと歩く。
「結果は、どうなったの?!」
「負けた」
「え…ぇえ!」
「でも、いつか奪い取る」
「え?何を?」
「青学の柱」
「はい?」
リョーマの話に全くついていけないけど…。 これ以上聞いても何も言う気はないようだし、負けたのにも関わらずなんだかリョーマ自身が楽しそうだから良しとしよう。
「遅くなってごめんなさい!」
「おじさん、心配しちゃったぜ」
「すみません…。南次郎さん」
リョーマと家に帰ってきた私は、心配をかけてしまった倫子さんたちに頭を下げる。
「リョーマにまで迷惑かけちゃって…」
「あー!それだけどな!」
南次郎さんは、なにかを思い出したようににやにやとした表情で私に詰め寄る。
「あいつの練習に付き合って、家に帰って風呂入った後な」
「はい?」
「リョーマの奴、ちゃんがまだ帰ってないって聞いて、家から血相変えて出てったんだぜ」
「…嘘」
「本当だって。なぁ?菜々子ちゃん」
「ぇえ。リョーマさんすごく心配してたんですよ」
リョーマは、南次郎さんに言われたからだって言ってたのに…。
「わ、私!もう一回リョーマに謝ってきます!」
私は、赤くなる頬を隠すように急いで立ち上がり、部屋にいるリョーマの元へと向かう。
「(もっと強くなりたい、ねー…)」
南次郎は、今日の練習でのリョーマのことを思い出す。
「誰のおかげか知らんが、これからがお楽しみだな」
強くなるための仕掛けも布陣も全て揃った。
「あとは、どう動くかだけだ」
南次郎は、新聞を手にしながらにんまりと笑った。
「リョーマ!」
私は、どんどんとリョーマの部屋のドアを叩く。
「ふぁ…なに?」
リョーマは眠たそうにしながら、ドアを開けて私の方を見る。
「っ~~!」
そんなリョーマの仕草すら、格好よく見えてしまう。恋は盲目というのは、どうやら本当らしい。しかも、私のは重傷かもしれない。
「…?」
「あ!えっと、言いたいことが…」
「なに?」
「今日はありがとう!」
「は?」
「リョーマが迎えに来てくれるなんて、思いもしなかったから。私、すっごく嬉しかった!」
私は、これ以上ここにいると心臓が爆発しそうになると感じて、私は逃げるように自分の部屋のドアの前へと走る。
「それだけだから!じゃあ、おやすみ!」
「…おやすみ」
バタン!と私は、勢いよく自分の部屋に入りドアを閉めた。
「なにあれ?」
リョーマは、目をぱちくりさせての異様な行動に疑問を抱きつつ、部屋のドアを閉めた。
「はぁ…重症だわ」
はずるずるとドアにもたれかかったまま、座り込む。 今まで、なんともなかったことが自覚した途端にこれだ。心臓の音がうるさい。顔が熱い。 ここまでとは、自分でも思いもしなかっただけに、明日から、ちゃんとやっていけるのか不安になるが…。
「やっていくしかないよね…」
もはや諦めにも近い口調では、自分に言い聞かせた。