34話 嘱望の交点


ピピピ…ピピピ…ピッ!

おもむろに、布団の中から手を伸ばし煩く鳴り響く目覚まし時計を止める。

「…ん」

リョーマにとって今日の目覚めは、最悪だった。

「ふぁ…眠い」
「あら、おはよう!リョーマ」

ようやく制服に着替えて部屋から下りてきた自分の息子を目にすると、倫子は冷蔵庫から瓶の牛乳を二本取り出してテーブルに並べる。

「ん…」

リョーマは朝食を目の前にして椅子に座っても、まだ眠たくて開かない目をごしごしと擦る。

「ねぇ、ちゃん、随分朝早くに一人で学校に行ったけどなにかあるの?」
「…さぁね。俺に関係ないし」
「え?」
「いただきます」

冷たくそう言うとリョーマは、無言でゆっくりとお皿の上に出されたトーストを食べ始める。
倫子はそんなリョーマの反応に驚いたように目をぱちくりとさせる。

「(ちゃんも様子が可笑しいと思ってたけど、リョーマはもっと変だわ…)」

他人に興味を抱かない自分の息子がいつもに関してだけは、なにかしら違う反応をリョーマがしてくれていたのを倫子はよく知っている。
だけど、昨日から反応が普通すぎる。むしろ冷たいくらいだ。
そんなリョーマを見て倫子の心配は、一気に加速していくのだった。


パーン!

「っ!」

は、ラケットでテニスボールをブロック塀に力強く打ちつける。

「はぁ…はぁ…」

自分の元に返ってきたボールを縦に弾くとポンポンと足元に転がる。

「…あーあ。学校、はじまっちゃった」

公園にある時計を見上げると、もうとっくに授業が始まる時間は過ぎていた。

「朝からそそる格好だな」

制服のブラウスを、3つほど折り曲げて短くしたスカートの中に入れて、動きやすい格好にして立っていたの耳元に低い男性の声。
思わず、びくっ!と肩を上げ声がした後ろの方を振り向く。

「あ、あなたは!」
「久しぶりだな」
「跡部さん!何してるんですか?!こんな所で!」
「てめぇこそ、学校だろ。さぼりやがって」
「そ、それは、お互い様じゃないんですか?」
「つまんねー教師の授業を聞いたところで俺様になんの得がある?」
「それをさぼりって言うんですよ」
「…その減らず口は、相変わらずだな」

彼は、いつも突然私の前へと現れるくせに、訳の分からないことを口にして帰って行く。 今日もどうせすぐに帰るだろうと思い、私は彼を無視して地面に転がったテニスボールを拾っていると再び彼は口を開いた。

「俺様が前に言ってやったこと、覚えてるか?」
「えーっと…確か“お前に、跡部景吾っていう男を分からせてやるぜ”ってやつですか?」

は、少し低く掠れたような声でそう言う。

「似てねぇぞ、おい」
「あはは!跡部さんの真似してるって分かってもらえました?」

始めに会った時とは違い、やっと無垢な笑顔を自分に向けるに、跡部は声を高らかに笑う。

「やっと笑ったな」
「へ?」

首をかしげては、不思議そうに跡部を見上げる。

「暇なら来い。俺様を理解するのに一日もいらねぇはずだぜ」
「…なんで、そんなに私に構うんですか?」
「理由がいるってのか?」
「当たり前です。私とあなたは、会って間もないはずです」
「お前はな。でもな…似てるんだよ」
「似てる?」
「まだ気がつかねぇのかよ。その面も中身も、てめぇの親父にそっくりだって言ってんだよ」

は、跡部の言葉に目を大きく丸く開いた。


「なんスか?こんな所に呼び出して」

に人気のない校舎裏に呼び出されたリョーマは、不機嫌そうに睨みつける。

「ちょっと聞きたいだけよ。ねぇ、なんでが学校に来てないの?」
「…は?」
「学校にも連絡がないみたいだし、携帯も通じないの」

リョーマは、その言葉で一瞬目の前が真っ白になる。
倫子に朝早くに、は学校に言ったと聞いていただけに、が何を言っているか分からない。

どうしたの?家にいるんでしょ?風邪?」
「…知らないっス」
「はぁ?」
「っていうか、そもそも俺には関係ないんで」

立ち去ろうとするリョーマの手首をは急いで掴みあげるが、すぐにリョーマは、力強くその手を振りほどいた。

「ちょっと!と何があったの?!」
「別に、なんでも…」
「嘘!さっきから全然越前君らしくないわよ」
「は?俺らしいってなんスか?」
「いつもを見て、守ろうとしてくれてる!」

予想もしなかったことを言われただけにリョーマは、驚いたように目を丸くしてを見る。
しかし、リョーマにそういうは、どこか悔しくて泣きそうな表情をしている。

「でも今はわざとを遠ざけようとしてるよね?どうして?」

そう問いかけても無言で目をそらしているリョーマを見ては、ため息をついた後軽く微笑んでみせた。

「まぁ、私としてはそのままで居てくれるなら楽だからいいけど」

の空気が代わり、自分への挑発ともとれる言葉にリョーマは、思わずに目線を合わせて睨みつける。

「これでの一番を越前君に盗られなくて済むもの」

の言葉で、リョーマはぐっと手を握りしめるのに対しては安心したような笑顔をリョーマに向ける。

「でも、そっか。なんにも知らないんだ。今ののことなのに」
「…なにが言いたいんスか?」
「別にー。私は、の気持ちなんてとっくに分かってるもの」
「(やっぱこの人、苦手だ…)」

リョーマは一つ深いため息をつく。
前までの一番は自分だと、啖呵を切れるくらい目の前の彼女よりもに近い自信はあった。
だけど今は、何度思い返しても自分の言った言葉で泣き臥せたの顔を見たのが最後…。
同じ家だと言うのに、リョーマはのことをそれ以降見ていない。
が分かっているというの気持ちの真意すら自分には分からない。
危ういと分かっていたはずなのに…から目をはなしてしまった。

「越前君が知らないなら、もういいわ。とりあえず、桃城に越前君の家に電話して聞いてもらうから」

は、うーん…と、考える仕草をしてリョーマの方をニヤリと見た。

「前に宣戦布告した通り、勝負は私の完全勝利ね。は今も私のものよ」
「ッ!」

まるで追い打ちをかけるかのように、自分に向けられた勝利を宣言する言葉にリョーマはピクリ反応し肩に力が入った。

「(にゃろう…)」

たしかに彼女を傷つけたのも、涙を流させたのも自分だ。
そして、最悪なことに次はそんなを遠ざけようとしていた。
遠ざけて知らないふりをして、痛みから解放されて楽になろうとした。
だけど、遠ざけて知らないふりをしようとすればするほど苦しくなった。

彼女の本当の気持ちを聞きたいはずなのに、 もし、もう一度“あり得ない”と言われたのならと思うと知らないうちに、怖くてなってしまっていたんだ。
誰かに、横取りされてしまえばそれこそ、耐えられないと分かっていたのに…。
そう…今でも目の前の彼女にすらも渡したくないくらい、自分は彼女を思っているのだから。

「…まだまだだね、先輩」
「え?」
「勝負はこれからっスよ」

リョーマは、顔を上げ生意気そうに笑う表情をに見せた後、の横を通り過ぎ校門へと走りだした。

「え!ちょっと!越前君?!」

は、自分の言葉など全く聞かないリョーマの様子にため息をつく。

「はぁ…これで私の痛みも少しは分かった?生意気少年」

を今まで一番近くで見ていたのは、誰でもない私だったはずなのに…。

「サンキュー。なんか悪いな、嫌な役押し付けちまって」

がリョーマの背中を見送った後、木の陰から手を合わせて出てきた桃城にはため息をつく。

「桃城。本当にあれでよかったの?」
「あれだけ煽れば充分だろ。後は、あいつら次第だしな」
「そうじゃなくて、あんただってのこと…」
「いつの話してんだよ。それに本当はお前が一番辛いんだろ」

桃城は、の頭を鷲掴みにして撫でる。

「…の無事が最優先なだけよ。見つけられないなら、その時は私が貰うんだから」

もし、これで彼との勝負に負ける結果になったのだとしてもの一番の親友は、誰でもない。
この私なのだから…。


「ほ、本当にお父さんだ…」
「だからそう言ってんだろ」
「でも、そんなこと急に言われても…」
「お前が信じられなくてもこれが事実だ」

無理矢理、跡部の家に連れられてきたは、 跡部に自分の父の写真を机の上に差し出され、跡部の言葉を信じざるを得なくなった。
まさか、アメリカに行く前は跡部の専属医だったなんて自分が幼かっただけに覚えがないが、"跡部"という名字。 どこかで聞いたことがあるとは思っていた。

「俺様は、二度は手放さねぇんだよ」
「跡部さん…そんなに私のお父さんのこと好きだったんですか?」
「嫌な言い方するじゃねぇか」
「いいじゃないですか!でも、私もそう言われると嬉しいですよ」

父の人柄が温かくて、この世で一番の医者であると思っている私は、そんな父を慕ってくれる人が実際にいたなんて思うと凄く嬉しい。

「ありがとうございます。跡部さん」

私は、跡部さんに頭を深く下げた。

「分かったなら、俺様の女になりやがれ」
「それとこれとは話が別です」

は、正面に座る跡部ににっこりとほほ笑む。

「お前だって一応女だろ?少しくらい運命だとか感じねぇのか?」
「あはは!跡部さんって意外とロマンチストなんですね!勿論、私だって嫌いじゃないです」
「じゃあ、なぜだ?お前は、何故そこまで俺を拒む?」
「身分相応です。跡部さんはこんなにお金持ちなんです。私なんか一般人、ありえませんよ」

跡部の豪華な部屋を見渡しながら、はリョーマのことを思い出す。

マネージャーとして恋をしてしまった私
一緒の家に住んでいるのにも関わらず、好きになってしまった私

この想いは、伝えたくても伝えられない。これ以上、私の存在で迷惑はかけられない。
上を目指す彼には…テニスを見ている彼には、絶対にこの想いを伝えちゃいけないんだ。
もし、彼に嫌われたのならこのまま壊れてしまった方がいいのかもしれない…
は下を向いて、ぐっと歯を食いしばった。

「馬鹿馬鹿しい。そんなの誰が決めた?」
「へ?」
「俺様は、欲しいものは全力で奪い取る。自分の力でだ」
「欲しいもの…」
「あり得ねぇなんて言葉を、勝手にてめぇの小せぇ尺度で測るんじゃねぇよ!」

跡部さんは、真っ直ぐな瞳で私を強く見る。

「相手がどうだろうと関係あるか。俺様は欲しいものは欲しいって言うんだよ」
「…そ、そんな風に思えるのは跡部さんだからですよ!」
「欲しいものを全力で手に入れるのに、形振りかまってられる人間がどこにいる?」
「それは…」
「勉強や仕事だってそうだ。知識や地位が欲しいと願うから手に入れられるんだよ」

欲しい…もの
跡部の言葉が鋭い刃物のようにの胸を突き刺す。
は、手に持っていた写真を目の前の机に力づよく、バン!と叩きつけながら立ち上がる。

「それは願望です!願望と欲望は違います!それに跡部さんの言ってることは全部、駄々こねた子供です!」
「じゃあ、てめぇはいい子ちゃんで猫被った餓鬼か?」
「なっ…!私は、相手のことだって考えて…!」
「本人に聞かなきゃわからねぇことをお前が勝手にいいと決めるな。認めろ。お前は欲しいものを欲しいと言えず、親にいい子ぶったガキと一緒なんだよ」

椅子に大きく腰かけながら言い放つ彼の言葉は、的確に私の胸に響き渡る。

「っ!」

そう。本当は、誰よりも欲しいはずなのに…。私は、手に入れたいと願っているはずなのに…。
何かしら、もっともらしい理由の嘘で全てを塗り固めて、隠そうとしていた。自分を偽っていたのだ。
だけど、どこかで諦めきれない私の本心が、彼には見えてしまっていたのだろう…。
今の現状は、それが招いた最悪の結果だ。

リョーマを苦しめて、誤解を招くような事態を引き起こすことになってしまった。 本当…跡部さんの言うとおり、私は、猫を被って、いい子に見せているだけの子供だ。

「(私…馬鹿だ…)」

この馬鹿さがリョーマを、傷つけてしまった。
やだ…やっぱり、このままなんて…勘違いされたままリョーマに嫌われるなんて嫌だ。

「跡部さん!」

は跡部の方を真っ直ぐに先ほどより明らかに強い眼差しで見つめる。

「私、行かなきゃいけないところが出来ました」
「ようやくお前らしい顔つきになったじゃねーか…来い」

跡部は椅子から立ち上がり歩き出すと、ゆっくりと部屋のドアを開ける。

「え?」
「いいから、黙ってついて来やがれ。送ってやるよ」

は、突然立ち上がり歩き出す跡部の後ろをついて部屋を出た。

「あ、跡部さん!本当にいいんですか?!」
「うるせぇ。車に乗った後でガタガタぬかすな」
「だ、だって…」

以前、が見かけた真っ黒な高級車の後部座席に乗せられたは、きょろきょろと周りを見渡す。

「惚れた女の面倒くらい、いくらでもみてやる」

いつも自分に対して強気な口調突っ掛かり、真っ直ぐな瞳をむける彼女に惚れたのは自分だ。
勿論、本当ならこのまま手放すなんてしたくない。 これから彼女が行こうとしている所など、軽く予想がつく。
本来なら、それを阻止して彼女を連れ去ってやろうかと思うくらいだ。
だけど跡部は今まで見たことのないくらい暗い瞳をするが許せなかった。
跡部が惚れた彼女は、いつも明るい瞳で自分を惑わす彼女だったのだから…。
折角戻った輝く瞳の色を汚してしまうなんて、どうしても出来なかったのだ。

「跡部さん…」

は、隣に座る跡部の顔を申し訳なさそうに見つめている。

「言っておくが、俺様はお前を諦めたわけじゃねぇからな」
「跡部さんは、相手のことなんか考えずに奪い取るんですもんね」

跡部がそういうと安心したような表情に変わり、クスクスと冗談気に笑うに対して、跡部はそんなを横目にパチンと指をならす。

「当然だろ」
「あはは!本当、無茶苦茶ですね!でも、ありがとうございます」

言っていることは、いつも通り無茶苦茶。ちょっとくらい相手のことも考えて欲しいものだとも感じるが、 それこそが、彼の生き方だと思う。自身、少しは見習わなくちゃいけないのかもしれない…と心の中で思う。

「本当にここでいいのか?」
「はい!」

は、開けられた車を降りる。

「跡部さんを見習って私も少し駄々をこねてみます」
「ああ…じゃあな」
「本当に、ありがとうございました」
「…出せ」

跡部の車が消えるまで、は大きく跡部さんに手を振った。

「…さて、と」

会いたい人に会うために…この想いを…欲しいものを叫ぶために、は走りだした。


「はぁ、はぁ…くそっ!」

リョーマは、走りながら何度も何度も携帯を耳に当てる。 どれくらい走ったかなんてわからない。どこに向かっても…探し求める彼女の姿はない。

「あの馬鹿っ!」

電話を何度かけようとも、電源が入っていない。
昨日の出来事以来、口どころか彼女の姿さえも見ておらず、部屋にこもりっきり、彼女は夕飯の時にも顔を出さなかった。

朝は、学校にいつもより早くに行ったと倫子に聞かされた。 自分と顔をあわせたくないだけだと思ってた。だからあの真面目な性格のが、学校に来てないなんて… なにかあったとしか思えない…彼女が無事なのかすら分からないなんて、情けないとすら思う。
散々、彼女から目を離すと危ないと忠告されていたのに…自分の勝手なわがままで離してしまったことをこれほど後悔する日がくるとは思わなかった。

「はぁ…はぁ…」

半日以上、街を走り続けたリョーマの体力は、すでに限界だった。
もう帰ってくる気がないのではないかと…。どんどん良くない方向に考えてしまう。
彼女がいるとすれば、ほとんどゼロに近い可能性だが、残りはもうあそこだけ…
一か八か…リョーマは、今日は昼から出かけていて、誰も帰っていないはずの自宅のドアをゆっくりと開けた。

「…ったく、俺も遅いよね」

自分では、分かっているつもりだった。彼女のことが好きだと自覚しているつもりだった。
だけど…自分が思ってた以上に、彼女に溺れていたということに。いつも隣にいたはずの彼女がいなくなって初めて気付かされた。

「っ!」

今までの彼女の言葉や行動が嘘でないなら…
自分が知っているはずのなら、彼女の一番に近いのは、限りなく自分のはずだ。
もう、形振りかまっていられない。欲しい…この手で彼女に触れたいといつも願ってる。

「勝負はこれから…だよね?
「…リョーマ?」

いつもより短いスカートの制服姿で、リョーマの部屋に立っている彼女に誘われるように足を進めると、ドアはゆっくりと閉じられた。